「「「「WE ARE X(ウィー アー エックス)!!」」」」
曲の途中に演奏をやめて、コンサート会場の全員で叫び合い、ジャンプするあのフレーズです。
日本人で知らない方は居ない!?と思うほど、ロックバンド『X JAPAN』は最前線を突っ走ってきました。
特にリーダーYOSHIKIは、私が高校生の時からファンを続けてこれた唯一の存在です。
早30年が過ぎました。そんな彼の半生をYOSHIKIさんのピアノを聞きながら是非一緒に振り返ってみましょう。
まずは、ここで『Endless Rain』をお聞きください!
目次
伝説のバンドXが売れるまで
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これがYOSHIKIティーの原点だったのか!
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そうなんです!
デビュー前のYOSHIKIは今では考えられないヘアースタイルでした。
片方に何本もツノを立てるヘアスタイル。
これが普通?の時代だったんです。
デビューメンバー
YOSHIKI 千葉県館山市出身 1965年11月20日生
TOSHI 千葉県館山市出身 1965年10月10日生
HIDE 神奈川県横須賀市出身 1964年12月13日生
TAIJI 千葉県市川市出身 1966年7月12日生
PATA 千葉県千葉市出身 1965年11月4日生
結成時期
1982年、YOSHIKIとTOSHIが中心になり千葉県で結成。
バンド名はX(エックス)。Xには、無限の可能性という意味があることも、YOSHIKIは色々な場面で話してきました。
ちなみにYOSHIKIにスカウトされHIDEが1987年最後に加入したことも有名な話ですね。
ちなみにYOSHIKIが影響を受けたバンドは、Kissだったという話はあまりに有名ですね。
昨年の紅白では、共演してましたね。
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ビジュアル系ロックバンドの事務所って?
Xのレコードをリリースするため、YOSHIKIは1986年にインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立しました。
GLAYやLUNA SEAも所属してました。今思うと凄い話です。
1988年に同社よりリリースしたXの1作目のアルバム「Vanishing Vision」は、オリコンの週間チャートで最高19位を記録しました。
翌1989年にXの2作目のアルバム『BLUE BLOOD』 でCBSソニーからメジャー・デビューとなります。
当時はアイドルが全盛期でBOOWYなどもビジュアル系とはいえ、まだまだヘヴィメタなんて!って時代です。
正直髪の毛ツンツンなんて近寄りがたい存在だったと思います。
そう言えば余談ですが、大阪難波駅前でテイッシュ配ってるお兄さん達は、当時皆ヘヴィメタスタイルだったような…。
ちなみに、当時のオーディション映像がこちらです。
売れてからXjapan解散まで
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紅が爆発的なヒットで一気に知名度を上げたXは、海外進出に伴いバンド名をXから『X JAPAN』に変更したんです!
ロサンゼルスに有名な同名のバンド「X」がいたので、同名の名前を避けるためと言われています。
また最初は「X FROM JAPAN」と名乗っていたみたいですが、すぐに『X JAPAN』に変更したようですよ。
またこの時に新しいベーシストとしてHEATHが加入しています。
日本人がアメリカで成功するはずが無い。ましてや、ヴィジュアル系バンドが!みたいな風潮の中、YOSHIKIはチャレンジしたわけです。
ここで小泉総理も一緒に歌っていたあの曲を聞いてみましょう。
ドラムソロからの『Forever Love』です。
動から静へ
ドラムからピアノへ。
素晴らしい流れですね。
ちなみに、紅にはドラムソロパートがあるのも当時は驚きでしかありませんでした。
ちなみにYOSHIKIの血液型は何型か知ってる?
ところで、YOSHIKIの血液型は?
デビューアルバム『blue blood』の冊子に答えが載ってます。
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実はまさかのX型なんですよね!笑
最近まで出身地を明かさなかったり、秘密主義的なところが何ともYOSHIKIらしいです。
ちなみにYOSHIKIとTOSHIはデビュー当時から同級生と言っていながら、誕生日もX年X月X日としてた話も面白いですね。
そして、忘れはいけないのが、YOSHIKIしか出来ないこのパフォーマンス!
ドラム、壊しちゃいます。
これだけ、ファンを楽しませていた『X JAPAN』なのに、ファンを一番悲しませたのが解散でした。
当時ボーカルのTOSHIは、ホームオブハートに洗脳され『X JAPAN』から脱退することをYOSHIKIに告げました。
ボーカルが、TOSHIの代わりなどいるはずもなく、また彼の歌声で曲が描かれていることもあり、解散しか選択肢が無かったYOSHIKIは決断せざるをえかったと話しています。
XJapan解散後の沈黙期間
『X JAPAN』解散後、YOSHIKIはしばらく沈黙していました。
天皇陛下御即位十年奉祝曲『anniversary』
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『X JAPAN』の解散直後に起きたメンバーのHIDEの事件も沈黙の発端になったと言われてます。
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HIDEの死について
1998年5月2日の朝7時30分頃、自宅マンションの寝室にてドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態になっているのが同居していた婚約者によって発見され、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。33歳没。後にファンが後追い自殺をするなどの事態が発生したという。5月5日に関係者のみ300人を集め密葬が執り行われ、5月6日に通夜、5月7日に告別式が催され両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。告別式にはTOSHI、TAIJIを含むX JAPANのメンバーをはじめ、親交のあった音楽仲間や業界関係者も参列した。告別式はテレビで生中継された。(Wikipediaより)
解散後の沈黙期間に作られた名曲!
『without you』皆さん、ご存知ですか?
hideを想って作った曲なんですよ。
私はこの曲を聴くと、『X JAPAN』のファンでよかったと本気で思います。
なぜなら、今までの『X JAPAN』の歴史を全身で感じながら聴くことで、本当に心が癒されるからです。
仲間思いのYOSHIKIだからこそ、こういう曲を描けるんだと思います。
年齢を感じさせない弛まぬ努力とは?
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見て下さい!
このシックスパック!引き締まった体!
並大抵の努力では、この体型は維持できませんよ。
デビュー当時から裸見せてきたことで、今もプロとして魅せるという意味でも努力しています。
カッコイイ!
とにかくずっと変わらないことが、何より凄いと思います。
xjapan 再結成後の現在のYOSHIKI
今は単にドラムソロだけでなく、ピアノの混ぜてソロをしてるんですよね。
プライベートでは、自家用ジェットに超高級
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そして、YOSHIKIプロデュースのYOSHIKIMONOです。
何とYOSHIKIの実家は呉服屋さん。
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あと、ワインもプロデュース
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クレジットカードも。
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ドキュメンタリー映画まで。
資産は、一体いくらあるんでしょうか。
Twitter、インスタから見えてくるものとは?
ファンが世界に広がり、『X JAPAN』に興味を持つ方々が日本人に限らず、全世界中に広がっています。
YOSHIKIは本当にファンを大切にしています。
インスタやTwitterので情報発信は、随時行っていますし、何よりコロナで緊急事態宣言が出る前からコンサートなどの自粛も呼びかけています。
自身の影響力の大きさを十分認識しており、その行動1つ1つがある種のプロだと感じます。
まとめ
正直YOSHIKIについて、書ききれないです。
もっともっとYOSHIKI魅力を伝えたいし、もっともっとYOSHIKIを数多くの人に知ってもらいたいです。
たまたま私が高校生の時に『X JAPAN』と出会ったのは、本当に幸せだったと思います。
コンサートも行きました。CDもDVDも買いました。
他のアーティストのものは、どこに行ったか分かりませんが『X JAPAN』のものだけは大事にしまっています。
なぜなら、私にとって『X JAPAN』のYOSHIKIは、私が死ぬまでファンで居たいと思える唯一無二の存在だからです。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

